ビビアンマフラーの誕生

ビビアンマフラーを見る>>>



 日本でも大人気のビビアンマフラーの生みの親、ビビアン・イザベル・スウェアは1941年4月8日ダービーシャ地方グロソップで生まれ、両親の愛情の下、健やかに育ちました。その後ビビアンが17才の時、ビビアンとその家族はロンドンへ移住しました。

 ロンドンではキングスロード430番地に居住し、そこは当時のカルチャートレンドの最前線にありました。ビビアンは若い頃には教師を志していましたが、いつしかファッションの道へと入ります。

 ビビアンの最初の夫はDerek Westwoodでしたが、3年後の1965年に破局を向かえました。その後、1971年ロンドンがカルチャートレンドの最前線にあった頃、ビビアンは新しいパートナーであるマルコム・マクラーレンと共にファッションデザインを始めました。また、ビビアンは新しいコンセプトの洋服を発表するたびに店の名前や装飾までをも変えていくというこれまでには考えることができない発想でビビアンファッションを送り続けました。そして、常にビビアンの作品を一から変化させていました。ロンドンキングスロード430番地のショップにはビビアンたちのアイデアとデザインが詰まったショーケースがいくつもたち並びました。ここが、ビビアンマフラーの生誕地とも言えます。

 1971年、キングスロード430番地は“Let It Rock(レット・イット・ロック)”という名で知られるようになります。当時ファッショントレンドはヒッピー、イギリスのラジオではロックンロールミュージックなど耳にすることがないその時代、ビビアンの“レット・イット・ロック”では50年代のロックンロールのレコードと洋服を扱うショップでした。

ビビアンマフラーを見る>>>

posted by ビビアンマフラーヴィヴィアンVivienne | TrackBack(0) | ビビアンマフラーの誕生

ビビアンマフラー1972〜

ビビアンマフラーを見る>>>



 この当時は、現在のようなビビアンマフラーのデザインはなされていませんでした。

 1972年、ビビアンのショップは“Too Fast To Live, Too Young To Die(トゥーファストトゥーリブ・トゥーヤングトゥーダイ―生きるには早すぎ、死ぬには若すぎる)」と、なんとも奇妙な、しかし、ビビアンの強い思いがこもったショップ名に変えました。Too Fast To Live, Too Young To Dieでは、ジップやチェーンが施された洋服、T-シャツにはスローガン、そしてZoot suits(裾でくくっただぶだぶのズボンと長い上着)を扱っていました。

 その2年後になる“SEX”はビビアンの1974年の新しいショップ名であり、オフィス用のラバーウェア、レザーボンテージ、T-シャツはジップ付き、穴空き、シュチュエーショニスト達のスローガン、そしてポルノグラフィックイメージのもの、そのような洋服を扱うショップでした。

 ビビアンは、1975年にマルコム・マクラーレンと共にパンク・ロックバンド、セックス・ピストルズをプロデュースしました。 このバンドのメンバーはビビアンの店"SEX"の従業員や常連客でした。セックス・ピストルズはSMの要素を採り入れた前衛的なパンクのスタイルを流行させ、現在まで「パンクの女王」と呼ばれることになる。

 1976年にパンクミュージック・パンクファッションの時代が到来すると、ビビアンの店は、"Seditionaries(セディショナリーズ)”続いて“World's End(ワールズ エンド)"とショップ名を変えていきます。“ワールズ エンド”はビビアンにしては珍しくその名を現在に至るまで、ビビアンのキングスロードのショップ名としています。

 パンクファッションに走っていたこの当時は、現在のようなビビアンマフラーのデザインの片鱗も見ることはできません。

ビビアンマフラーを見る>>>

posted by ビビアンマフラーヴィヴィアンVivienne | TrackBack(0) | ビビアンマフラー1972〜

ビビアンマフラーパリへ

ビビアンマフラーを見る>>>



 この当時も、現在のようなビビアンマフラーのデザインはなされていませんでした。

 70年代後半、ビビアン・ウエストウッドがイギリスのアヴァンギャルドの象徴となった頃、ビビアンは ロンドンのオリンピアにおいて1981年秋・冬コレクションで最初のキャットウォークプレゼンテーションを発表し、"海賊ファッション"や"魔女ファッション"を提唱しました。

 1982年10月、ビビアン・ウエストウッドは、マリークァント以来2人目のイギリス人デザイナーとして、そのコレクション発表の場をフランスのパリへと移します。それと共にビビアンはロンドンに2番目のショップ“Nostalgia Of Mud(ノスタルジア オブ マッド)”をオープンします。

 その後、1984年後半には、“Nostalgia Of Mud(ノスタルジア オブ マッド)”の閉店と時を同じくして、長年ビビアンと一緒にビビアンファッションに取り組んできた良きパートナーマルコムからも独立していきました。

ビビアンマフラーを見る>>>

posted by ビビアンマフラーヴィヴィアンVivienne | TrackBack(0) | ビビアンマフラーパリへ

ビビアンマフラーの原点

ビビアンマフラーを見る>>>



 この時期から、現在のようなビビアンマフラーのデザインの原点が始まります。

 1984年秋、ビビアン・ウエストウッドは、東京で行われた「The Best Of Five」に、ジャンフランコ・フェレ、カルバン・クライン、クロード・モンタナ、森英恵らと共に選ばれ初めて来日し、ビビアンのコレクションを発表します。

 1984年はビビアンがファッションに対する方向性を変えた重要な年でもあります。これまで、ビビアンのファッションが若者を中心に流行をリードしてきましたが、この頃からストリートスタイルや若者のカルチャーが、ビビアンの世界を模倣することをやめたのです。

 これを機にビビアンは、デザインの傾向を19世紀以前のヨーロッパの衣装からインスパイアされた、エレガントな路線に変えていきました。ビビアンは、サヴィルローテクニックの中に、17世紀のイギリスの生地に、そして18世紀のアートの中にビビアンのインスピレーションの源を見つけるようになるのです。この頃に“伝統をもって未来を創る”というビビアンのクリエイティビティを象徴するブランドロゴは"王冠"と"地球"をモチーフにしたオーブORBロゴが初めて使われ、現在に至るまで使われています。

ビビアンマフラーを見る>>>

posted by ビビアンマフラーヴィヴィアンVivienne | TrackBack(0) | ビビアンマフラーの原点

ビビアンマフラーの原点その2

ビビアンマフラーを見る>>>



 この時期も、現在のようなビビアンマフラーのデザインの原点の始まりに含まれます。

 1989年ビビアンは、フェアチャイルドパブリケーションズの社長であり、ファッションバイブルのウーマンズウェアーデイリーのエディターでもあったMR.John Fairchildによって彼の雑誌“chic sabages”において、世界の優れた6人のデザイナーの1人に選ばれます。

 ビビアンは、これまでビビアンレディスコレクションの中においてメンズウェアも併せて発表していましたが、1990年7月フローレンスで行われたPitti Uomoで初めてレディス部門から独立したメンズコレクションを発表しました。

 そしてこの年ビビアンは大変な栄誉である“British designer Of the year”に選ばれました。1991年1月には、クリスチャン・ラクロワ、アイザック・ミザリそしてフランシスコ・モスキーノと共にファッションサミットに参加するため、ビビアンは再び東京でコレクションを発表することを決めました。1992年、再びビビアン・ウエストウッドはその年の“British designer Of the year”に選ばれました。

ビビアンマフラーを見る>>>

posted by ビビアンマフラーヴィヴィアンVivienne | TrackBack(0) | ビビアンマフラーの原点その2

ビビアンマフラーの賞賛

ビビアンマフラーを見る>>>



 この時期には、ビビアンマフラーが賞賛され、ビビアンマフラーの愛好者が増えつつある時期です。

 1993年ビビアンはレディスウェアを デミクチュールとも呼べるファーストライン“Gold Label(ゴールド レーベル)”とプレタポルテラインである“Red Label(レッド レーベル)”とに区分けしました。
 “MAN(マン)”は、国際的な歓呼に応える形で1996年のミラノコレクション開催中に独立したメンズウェアのラインとして発表しました。

 1998年 ビビアンの過去のコレクションを余すことなく表現した、若年層向けまたはカジュアルに着こなせるメンズ・レディスウェアライン としての“Anglomania(アングロマニア)”を、また同年ファーストフレグランス“Boudoir”を発表しました。

 ビビアンは1999年2月には米国にてRED LABELをコレクションとして発表、また2000年にはセカンドフレグランス“LIBERTINE”を続けて発表しました。2001年にはビビアンはデザイナーとしては初めてMoet&Chandon Fashion Tribute賞を、また2003年6月にはUK Fashion Export Award for Designを受賞しました。同年9月にはミラノ、10月にはリバプールに次々とSHOPをOPENしました。

ビビアンマフラーを見る>>>

posted by ビビアンマフラーヴィヴィアンVivienne | TrackBack(0) | ビビアンマフラーの賞賛

ビビアンマフラーが大人気

ビビアンマフラーを見る>>>



 この時期には、ビビアンマフラーが賞賛され、ビビアンマフラーの愛好者が急増する時期です。

 2004年4月からはビビアンはロンドンのV&Aミュージアムにてビビアン自身の34年のファッションにおける軌跡を辿るVivienneWestwood回顧展を開催しました。この回顧展はロンドンのあと、キャンベラ、台北、2005年11月には東京でOPENINGコレクションも開催され大盛況のうちに終了し、その後もデュッセルドルフ、バンコクと世界中をツアーしました。

 2005年3月にはビビアンはGold Label“PROPAGANDA(プロパガンダ)”(05-06AW)にてダイアモンドコレクションHardcore Diamonds(ハードコアダイアモンド)”を発表しました。

 2006年1月にはビビアンはエリザベス女王からNew Year Honour‘DAME’の栄誉ある称号を与えられました。そして2006年5月からはビビアンはアメリカニューヨークのMetropolitan Museumで開催された‘ANGLOMANIA展’に参加し、2006年9月にはイタリアのヴィジェバノのスフォルツェスコ城にて“VivienneWestwood Shoes1973-2006”を開催しました。

ビビアンマフラーを見る>>>

posted by ビビアンマフラーヴィヴィアンVivienne | TrackBack(0) | ビビアンマフラーが大人気

ビビアンマフラーの姿勢

ビビアンマフラーを見る>>>



 ビビアンは70年代のパンクファッションの仕掛人として有名になり、当時パンク・ロックバンドとして一世を風靡したセックス・ピストルズのプロデュースにかかわるなど、以後アヴァンギャルドなデザイナーの代名詞として称されてきたビビアン・ウエストウッド。ビビアンのファッションは現在に至っては“オートクチュールとも呼べる高度なテクニックに裏付けられた服作り”と高く評価されています。ビビアンはトレンドというものに全く惑わされることなく、永年貫かれている独自の“クリエーション(創造)”に対する情熱と姿勢は、今尚変わることはなく、むしろ更なる飛躍を続けています。

 その姿勢は小物であるビビアンマフラー一つをとっても何一つ変わるものではありません。ビビアンはトレンドというものに全く惑わされることなく、永年貫かれている独自の“クリエーションで制作されています。いつまでも飽きの来ない独自のデザインと良質な素材を使用していることから、毎年、老若男女を問わずファッションセンスに敏感な方たちの首周りを温めてくれます。

 ビビアンブランドは日本でも愛好者は多く、著名人としては兵庫県尼崎市出身の漫画家でNANAで有名なファッションセンス抜群な矢沢あいさんや下妻物語の作家嶽本野ばらさんが好むブランドとして知られています。
 また、マフラーの中でもビビアンマフラーは人気が高く、冬を迎えるとビビアンマフラーは多くの店で品切れになるほどの人気をよんでいます。

ビビアンマフラーを見る>>>

posted by ビビアンマフラーヴィヴィアンVivienne | TrackBack(0) | ビビアンマフラーの姿勢

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。